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ミニマリスト見習いの、よくばりジャーナル

「仕返し」と死刑制度

こんにちは、ミオグロビンです。

例によって思いついたことをだらだらと書きます。
なんか今ならずっと伝えたいけどうまく伝わらなかったことが整理できるような気がするんです。

みなさんは誰かに「仕返し」したいと思ったことはありますか?

それはどんなときですか?
どうしてですか?
なんのためですか?

相手を苦しめるためですか?
相手が苦しんでるのを見てあなたはどう思いますか?

(いや、別に「この人でなし!」みたいなことが言いたいのではないです)

うーん、そうですね、あんまり良い例が思い浮かばないな。
お菓子勝手に食べられても構わないし(用意しておくより勝手に食べることの方が多いから?)
そもそも自分でお菓子を買わない…

無理に思い出そうとするとメンタル的によくなさそうなのでやめておきましょう。荒んできました。

みんなが「仕返し」を意識するときって
二つの要素をごちゃまぜにしていると私は思います。

一つは「相手を苦しめる」ということ、
もう一つは「自分がすっきりする」ということ。

「え?別なの?」と思われるかもしれないですが、
相手を苦しめることに成功していようと、自分が知らなければすっきりはしないですし
相手を苦しめるようなことをしなくても、なんとなくすっきりしてしまうということは論理的にはありえると思うのです。
ただ「相手を苦しめなくては、自分はすっきりしない」とか「相手を苦しめれば、自分はすっきりするだろう」と思い込んでいる人が多いだけで。

「相手を苦しめる」ことと「自分がすっきりする」こと、どちらの方が「仕返し」の目的としてよりふさわしいかといえば、「自分がすっきりする」ことだと思います。
相手がいくら苦しんでいても、大体の人は自分がすっきりするまで仕返しをやめませんよね?

仕返しは「相手を苦しめる」というよりも「自分がスッキリする」ことが大事。

そこで考えたいのが民事や刑事の裁判です。
もっと言えば一番問題提起したいのは「死刑制度」のこと。

民事は、相手に罰を与えるのではなく、金銭で解決をする裁判ですね。
これですっきりするかしないかは人によりますね。
何かしらの「仕返し」をしたくて相手を訴えたものの、いくらお金をもらってもすっきりしない人もいるでしょう。

刑事裁判は、罪に対して相手に罰を与える性質のものですが
日本では一番重い刑は死刑ですね。

日本は、死刑制度賛成派の人の割合が異常に多い国です。

多分、「どうして死刑制度に賛成ですか?」と聞いたら、死刑制度を多くの人は「それだけのことをした人には死んでほしいから」と答えると思います。
私もそう思っていた時期がありました。

つまり、
「加害者には、仕返しとして、被害者の仇を国家にとってほしい」と
明言せずとも多くの人は思っているのではないかと思います。

遺族(死刑に処せられるのは大体殺人なので、遺族という言葉で。)も大体、加害者に対して死刑が処せられることを望みますね。

ここで大事なのが、あくまで「相手が死ぬこと」と「自分たちがすっきりすること」は別の要素であるにも関わらず、

日本に死刑という制度があるために、

「加害者が極刑である死刑に処せられれば、きっと自分たちはすっきりするだろう」
という二つの要素を混ぜた仮説をもとに、死刑を求めてしまうケースが多いこと。(厳密には求刑するのは検事だけど…)

「加害者が死刑になったら、天国の被害者はきっとすっきりするはず!」といった言論は、仮説検証が難しく、カルトっぽいので、今回は置いておきます。

もちろん、「加害者が死刑になってめっちゃすっきりしたよ☆」というケースも当然あると思います。
でも、「加害者は死刑になったがなんかすっきりしない」というケースもあります。なんかで読んだ。し、十分ありえますよね。
それと同様に、「加害者は死刑にはならなかったが、何かしら別のタイミングで自分たちがすっきりした」ということもあると思います。

加害者が死刑になった、でも、すっきりしない。でも、死刑にならなかったけど、最終的に、被害者遺族はすっきりした事例も他にはある、ことがある。と考えたときに思うのは、「って、それ、加害者の命奪う必要あったの…?」ってことですね。
つまり「必ずしも極刑は死刑である必要はあるのだろうか?」ということです。
言い方は悪いけど、「極刑が今のところ死刑だから、なんとなくそれを求めているだけなのではないか」という見方もできます。

私は、必ずしも極刑が死刑である必要はないと思うな。


冤罪で死刑に処せられる可能性を排除できないしね。私やだよそんなの。
DNA判定ガーとかって言っても、今の技術は(過去最高ではあるが)未熟で、実は未来の技術の結果と比べたら全然違いました、ということもありえなくはない。
実際にそれで昔に冤罪で死刑に処せられた人がいる…って本で読んだ。

まあ、ここまで色々言っておいてなんですが、
罪と罰の関係は元々は個人的な仕返し(私刑)を防止するためだと思うので、まあ「大事な人を殺されたから相手には死んでほしい。死刑!」みたいな流れは自然なんだけど、
私刑を防止して「社会に一定の秩序をもたらす」のが目的ですからね。
だから求刑通りにはあまりならない。
そこのバランスが難しいですよね。
あくまで、あるべきは社会のための死刑であって、被害者のための死刑ではない。でも被害者も社会の一部だし当事者だから考慮はされる。そんな感じかな。

なんかまとまらなくなってきたからここのところで。
深夜テンションでお送りしました。